憲法不要論、廃止という選択

日本国憲法(現行憲法)は、いらないと思いませんか?

 

憲法は必要ないと言って、憲法不要論を展開すると、憲法9条のことを指していると勘違いする人が多く、日本人の多くは9条が無ければ、憲法の存在を意識することはないのだろうと思います。

 

この話は9条改正ではなく、憲法自体廃止しようという話です。もうやめにしませんか。日本国憲法は、不要なのかもしれません。

 

「憲法不要論」はアリかナシか、当記事を読み終える頃には、おのずと答えが見えてくるはずです。

 

憲法の始まり

昔、ヨーロッパでは、王様やその周囲の偉い人だけが権力をもって国と国民を支配していた時代がありました。この時代には、王様たちが決めたことがそのまま国の方針や政策になっていました。だから法で王権をしばることにしたのです。これが憲法の始まりです。

 

ところが、日本には、権力を振るう傍若無人な王様はいるでしょうか?天皇陛下はそんなことをするわけがありませんから、憲法は、そもそも必要ないということになります。

 

憲法の廃止

憲法を廃止するとなると、「憲法なくして大丈夫なのかな?」と、裁判はどうなるのか、法律を作る際の基準をどこに求めるのかと懸念を示す人はいて、その気持ちもわかるのですが、裁判は常に過去の判例にも照らし合わせて行われるものでもあるので、日本が法治国家である状況に変わりはありません。

 

これを「判例法主義」といいます。これは判例を最も重要な法源とする考え方で、裁判官は紛争の解決に際して過去の同種の裁判の先例に拘束される形です。英米法の基本的な概念のひとつ。

 

判例は、英米などの「判例法国」では、「法源」として法と同様の力を持ちます。それゆえ英米の裁判官は強力な力を持っていることを自明なこととして認められています。

 

もちろん憲法に変わる何か文書を作っても良いのです。そこまで否定はしていません。ですが、その文書の作成は、私よりもっと頭のいい人がしてくれるでしょうから、ここでは触れません。

 

憲法廃止によるメリット

むしろ憲法がないことで、内政でも外交でも臨機応変に対応していけると考えると、憲法廃止にはリスクよりメリットの方が多いのです。

 

憲法がないからといって、成熟した国である日本で、国家権力が暴走することはありえませんし、逆に自主規制が働いて、憲法の名のもとに(体制が整っていないのに自衛隊を海外に派遣するような)不可解な法律を押しとおすこともなくなるでしょう。

 

政府に対する国民の監視意識が高まるということも期待できそうです。何かあると一時的には大騒ぎしても、別の事件が持ち上がるとすぐに関心が移ってしまい、次々と忘れてしまうという日本人の困った国民性を変えることにもなるかもしれません。

 

ゼロベースに立ち戻る

日本国憲法の九条二項は、自衛隊の活動に不要な制約が課せられる根拠となっています。この九条二項の非現実的な規定のために、日本の「平和主義」が、空想的な「絵に描いた平和主義」となっているといわれます。まさにゼロベースに立ち戻って、いちから考え治すべきでしょう。

 

かといって廃止した現行憲法をまるまる無くすというのではないのです。廃止した後も、必要なときには活用するべきでしょう。どのように廃止後に活用するかは、頭のいい人が考えてください。

 

ここで「あれ?廃止したんだから、存在がなくなったんでしょ?」という疑問が湧く方もいると思います。

 

存在が無くなるというのは誤りなんですね。それは排斥の「排」と誤解してるのかと思われます。

 

廃止の「廃」は用を為さないという意味で使われます。物の形としては残ってる場合が多々あります。「廃止」の意味としては、使うのをやめると捉えるのが最も近いでしょうね。

 

つまり、廃止の結果として取り壊すことはありますが、壊すこと自体が廃止という事ではないのです。

 

まとめ

しかしながら、日本国憲法の必要性は薄いでしょう。生活必需サービスではないのです。みなさん憲法があって当たり前のように思っていらっしゃいますが。一度疑うべきです。

 

憲法不要論がたとえ実現しなくとも、最低限9条は削除し、自主防衛をできる体制にしなければ、何によってまがった法を正せるでしょうか。